遥乃陽 blog

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防空戦艦『丹生』1945年11月1日出撃時(TAMIYA 1/700の改造製作)

【戦局の好転が絶望的な最終局面に就役した大和型艦体構造の5番艦は、単艦で雲霞の如く襲い掛かる敵航空機を叩き落しながら、敵艦隊を視認する位置まで接近して大口径の主砲弾を撃ち込み、敵艦隊と敵輸送船団を撃滅する防空戦艦として建造する。艦名は古の日本の中心とされる奥飛騨の地『丹生/にゅう』と命名する】

という設定で、仮想小説の『越乃国戦記』に登場させた防空戦艦『丹生』をイメージする為に1/700の大日本帝国海軍『大和1945』を改造して製作してみました。

敵艦船の撃滅と敵航空機の編隊を殲滅する主砲は大和型と同じ45口径46cm砲で、前部に2基と後部に1基の4連装砲塔として合計12門を備えています。

4号艦まで副砲とされた60口径15.5cm砲の3連装砲塔は搭載せず、その位置には甲板防御を強化した上に40口径12.7cm連装高角砲を2基設置しています。

搭載している12.7cm連装高角砲の砲塔は18基で、合計36門が高空から接近する敵機に高射砲弾を撃ち上げます。

対空機関砲は評判の良くない毘式(ビッカース)40㎜機銃を採用せずに、南方の戦地で鹵獲したボフォース 60口径40mm機関砲をコピーした海軍豊川工廠製の5式40㎜高射機関砲を連装にした砲塔とし、18基の砲塔に合計36門を搭載しています。

40mm機関砲は5000m前後の高度から襲い掛かる敵機へ弾幕を展開します。

対空機銃は60口径の96式25㎜機銃を3連装の砲塔として設置され、48基144門と大量の搭載で3000m以内に近付く敵機に弾幕を張ります。

航空機への威力が乏しい13㎜機銃と場所を取り戦闘中の再装填が困難な墳進砲は搭載していません。

1945年(昭和20年)8月15日の天皇陛下の御聖断での終戦は、帝国陸軍の若手将校達に因るクーデター(宮城事件)で白紙に戻されて大東亜戦争は継続となり、大日本帝国の全ての日本人が火の玉となり、最後の一人が玉と散るまで、戦いを貫徹する覚悟がなされます。

最早、本土決戦は避けられない事態に陥りました。

中国大陸の戦線は全面的に崩壊、満州帝国と日本の領土にされていた朝鮮半島はソ連軍に蹂躙され、日露戦争の勝利で得た樺太島の南半分と千島列島も失います。

既に台湾は戦略的に無価値な領土となり、未だに占領政策が行われている東南アジアの占領地では、イギリス連邦軍の攻勢が加速されて、占領地全体で日本人排除の戦闘が頻発していました。

鹿児島に上陸して九州全土を制圧した連合軍は関門海峡付近で、本土防衛軍の果敢な肉弾攻撃に拠って侵攻を防止されてはいますが、防衛軍の武器弾薬は枯渇して、補充できる人員も無く、防衛戦闘は敵を脅すのみで日本人を虚しく昇天させるだけになっていました。

関東に上陸したアメリカ軍は瞬く間に関東一円の本土防衛軍の抵抗を粉砕して、天皇陛下が動座した長野県松代の新たな大本営へと急迫しています。

新潟県の佐渡ヶ島と直江津に上陸したイギリス軍も松代へと侵攻中でした。

其処へ北海道の北部を占領したのみで南下をアメリカ軍に阻まれたソ連軍が、『イギリス軍が占領した佐渡ヶ島を強引に奪って前進基地とし、更に新潟県北部へ強行上陸した後、日本海側の東北地方の占領』を目論んで、上陸侵攻部隊の輸送船船団と護衛の艦隊をウラジオストックとナホトカの港から出港させていました。

丹生は佐世保市の造船所で船体の建造、主砲塔の取付、高角砲塔と対空砲塔の基部の設置が完了すると、直ぐに進水しました。

佐世保港内で武装や艦載機搭載設備などを装備する工事が急がされていましたが、佐世保空襲後は爆撃を避けて旅順港へと移動して、そこで対空火器と水上機を搭載します。

更に大連港へ移動して集積された弾薬の搭載と細部までの工事が施しました。

次は朝鮮半島の日本海側へ回航されて元山の岸壁で不足分の弾薬の搭載と水密区画の確認を行いながら、戦闘要員の将兵の乗艦を済ませると濃霧に隠れて出港します。

離岸後は新潟に上陸したイギリス船団の航路に入り込んで舳倉島沖へと向かい、同海域で短期間の戦闘訓練を行いながら待機して出撃命令を待ちました。

10月30日午後5時過ぎ、新たに新潟沖へ接近するイギリス船団の撃滅を大本営から命じられます。

30日午後9時、『丹生』は海霧に紛れて出動します。

敵のレーダー派を逆探知しながら『丹生』は慎重に船団速度で進んで行きます。

同日夕刻に敵の船団航路に入って佐渡ヶ島の西岸に接近すると、佐渡ヶ島北端の鷲崎沖に50隻余りの大船団を電探の表示上に発見すると無信号、無発砲で接近します。

翌11月1日の午前3時には船団内に突入して砲門を開きました。

突入時に船団がイギリス軍でなくて、ソ連軍だと気付きましたが何方も撃滅すべき敵として攻撃します。

一方的な砲撃戦となり、ソ連船団は『丹生』の初陣を飾る戦果となりました。

殆ど反撃の被弾を受けないまま、11月1日の夜明けには水平線の彼方へ遁走する船の10数条の煙が見えるだけで、『丹生』の艦橋から見える周囲の海面には多数の撃破、或いは沈みつつある敵の艦船が漂うのみでした。

初陣後に『丹生』は、能登半島外浦の輪島市の沖に幽鬼の群れのように見える七つの岩礁の七ツ島の中で、灰緑色に泡立つ晩秋の日本海の海面に明灰色の船体を溶け込ませるように潜ませて、戦闘での歪や不具合を調整していました。

舳倉島と七ツ島の間、七ツ島の中と其の周辺はレーダー波の乱反射が酷くて多数のゴーストがスコープ上に出現するので、電子戦での隠れ場所に適していたのです。

但し潮流が速いので、絶えず操舵と微速の前進後退で位置の維持の調整をしなければなりませんでした。

それを怠ると、直ぐに押し流されて岩礁に衝突するか、海底の岩棚で座礁するかの危険な海域でも有りました。

11月5日午前零時、『加賀沖に敵艦隊現る』の警報を受け、『丹生』は徐に出動して石川県の沿岸沖を徐々に速度を上げながら南下して行きます。

最大戦闘速に達して南下中の11月5日午前2時過ぎには、半月の月明かりの中に敵空母から飛来したと思われる索敵機が付かず離れずに飛んでいるのを視認しました。

海面は月明かりに照らされる波頭以外にも、見渡す限りに発光する微生物で仄かに輝いていました。

海水表面の温度が低い時期なのに、発光微生物の湧き上がりと漂いは不思議な現象でしたが、それは単なる微生物ではなくて、海蛍か、小さな水母かも知れないと、『丹生』の舷側で勤務する乗員の誰もが思いながら、この奇妙な海面を眺めていました。

発光する微小生物を食用とする寒流の魚達が集まるのは必然で、大漁の期待できる良き漁場になっているのですが、制空権、制海権を敵に奪われている戦局下では、非武装の漁船の出漁は許可されていませんでした。

全速力で突進する『丹生』の航跡は光る海面を切り裂くように、暗い灰色の筋を一直線に引いていくが、500mほどで覗いた闇を閉じるように仄かに光る海に戻されて行きます。

夜空は半月と星々が輝いて、ボーと白く光る疎らな千切れ雲の流れて行くのが朧に見えます。

これが激しい時雨模様の天候ならば、敵機の襲来は無いでしょうが、雲量の少ない今宵は大編隊で必ず襲い掛かって来る筈です。

敵の艦載機が自機や僚機の位置を見失い易い危険な夜間攻撃を挑んで来る事を、丹生の乗組員達には分かっていました。

何故なら、『丹生』は夜明け前に加賀沖の敵輸送船団を確実に主砲の有効射程圏内に捕らえて突撃し、敵機動部隊諸共撃滅してしまうからです。

予想していた通り、其の1時間後には、まだ東の空が白んでいない夜明け前だというのに、敵のレーダー誘導と月明かりを頼りに敵艦載機の大編隊が接近して来るのを、『丹生』の電探が検知していました。

位置は志加浦村赤住の沖です。

距離は4万m、方向は南南西、高度は凡そで6000mです。

『丹生』の3基の主砲塔が旋回して、炸裂すると粉々に割れた砲弾外殻の鉄片の飛散ではなく、燃焼する焼夷弾子を撒き散らす三式砲弾を装填した主砲の砲門は、迫り来る敵艦載機の方向に向けられました。

突然、『丹生』の上空に枝垂れ花火のような赤、青、緑、黄の光りが落ちて来るように現れては風に流されては、また現れるというのが繰り替えされて、夜の虹のように見えました。

これは、いつの間にか真上に来ていた敵の索敵機が『丹生』の位置を知らる為に連続投下した照明弾の輝きでした。

船体後部に搭載する9機の水上機の零式水上偵察機、零式観測機、二式水上戦闘機は全て2基のカタパルトから射出されて、敵大編隊の迎撃に向かいます。

迎撃の任は敵機の撃墜破ではなくて、編隊を攪乱させて単機で『丹生』へ攻撃させる事に有りました。

距離は2万m、4連装の46cm砲は2門ずつ0.5秒の時間差で3砲塔が一斉に発砲します。

『丹生』の発砲を知らされた水上機隊が一斉に敵大編隊から離れて行きます。

主砲の発砲から30秒後、遥か彼方の空で大編隊の前、上、中に合計12個の大輪の花火が見事に咲きました。

其の輝きの中に敵艦機の群れが浮き上がって見え、数機が炎に包まれています。

主砲は1分間隔で一斉射を放ち、1分間隔で大輪の花火が大編隊を包みます。

主砲が3斉射を終えた瞬間に、左舷側の12.7cm連装高角砲群が『ドドン!』と息を揃えて一斉射撃を放ちました。

『ドン、ドン、ドン、ドン』と激しく連射する高角砲に、『ドッ、ドドーン』と主砲発砲の轟きが重なります。

大編隊が小編隊に分かれて投弾体制になろうとする時、『バン、バン、バン、バン、バン』と響く連射を40㎜連装機関砲が奏で、其の数秒後には『ガンガンガン』と3連装の25㎜機砲の全砲塔が中華の太い爆竹のように火を噴いてガ鳴り出し、『丹生』は全力戦闘状態になりました。

連装高角砲、連装機関砲、3連装機銃は、いずれも7㎜厚鋼板のシールドで覆われた砲塔内に置かれて、主砲の発砲の衝撃と落下して来る高角砲弾の断片、中高度や遠距離からの銃撃と炸裂する爆弾の衝撃と鉄片、高く立つ太い水柱が崩れ落ちる圧力などから人員と弾薬と銃砲の機関部分を守り、更に敵雷撃機の突入を阻む主砲の水平射撃の衝撃をも受け流します。

そして間断無く対空弾幕を撃ち上げます。

主砲の46cm砲弾は、搭載時に1回の一斉射撃分しか残されていなかった徹甲弾や貫通後に爆発する徹甲榴弾などは、既にソ連の艦船団の殲滅で撃ち尽くされて、アメリカの戦艦群と砲撃戦をする為の砲弾は貫通威力の無い三式弾のみでした。

其の貴重な三式弾も、次々と現れる敵の大編隊へ撃ち込まれて急速に減って来ていました。

高角砲、機関砲、機銃の弾薬も同様で、撃ち尽くせば、補充する術は有りません。

航行の為の燃料も同様で、現在の爆撃と雷撃を取り舵、面舵と全速力で回避中に弾薬を撃ち尽くして、直ちに反転退避しても、能登半島を回って七尾湾の能登島の東岸か、富山湾の西端まで辿り着くのが限界でした。

このまま進撃するのなら、敵の戦艦や重巡洋艦の撃滅は困難ですが、航空母艦や輸送船団には大損害を与えられると考えていました。

耐圧隔壁で仕切られている燃料庫の空になった部分へ海水を注水しながら進撃していた『丹生』は、多数の魚雷と爆弾が命中して満身創痍になりながらも羽咋郡千里浜海岸の沖まで南下して来ていました。

敵の輸送船団がいる金沢市沖まで約30㎞の海上です。

戦闘可能な主砲が1砲塔のみになって仕舞っても速力を維持できていれば、30分後には敵の上陸支援に集結している海域へ到達できて、敵輸送船団と護衛の敵戦闘艦船と刺し違える修羅場と化すでしょう。

しかし此処で三式弾は撃ち尽くされて、主砲弾は完全に無くなって仕舞います。

高角砲の弾薬も残り僅かで、半数にまで減った射撃可能な砲塔数でも1時間の対空戦闘が精一杯な残弾数でした。

突然、『丹生』は対空戦闘を停止して、艦上の灯り全て消し、艦内からの明かりの漏れを無くして、月明かりに輝く海面に艦影を紛れさせます。

それから大きく弧を描いて北方へと反転避退して行きました。

丁度、敵艦載機の大編隊での襲撃は途切れ、照明弾を投下していていた数機の敵の索敵機は『丹生』の搭載機に撃墜されていて、『丹生』の動向を監視する敵機は無く、仄かに光る夜の海面に溶け込むように『丹生』は見失われて行きました。

多数の爆弾と魚雷の命中による破壊の被弾痕と被雷孔で『丹生』の上部構造物は無残な姿となり、喫水は甲板近くまで迫って来ました。

それでも損傷の調整機能を働かせた『丹生』は火災を鎮火させて浸水の増加を食い止め、数多くの献身的努力で辛うじて維持された機関の圧力は、『丹生』が航行不能や沈没に陥るのを食い止めていました。

11月5日午前7時には能登半島先端の禄剛崎を回って、眩しい朝焼けの凪いだ内浦の海を投錨可能な浅瀬の七尾湾の能登島の東岸か、七尾港の岸壁を目指して、出し得る最大速力の18ノットで航行しています。

既に雷撃の破孔からの浸水の増加は多くの隔壁の閉鎖で止められましたが、機関の停止で排水ポンプが使えなくなると、いずれ、増える浸水で座礁か沈没するのは分かり切っていました。

故に深い場所での機関停止による漂流は是が非でも避けるべき事で、この先の珠洲沖からは微速でも七尾港に辿り着いて一刻も早く新たな動力を得るか、少量でも燃料を補充して機関を稼働させ、排水を続けて七尾港内での沈座を免れなければならないのです。

4時間前の深夜の対空戦で『丹生』は対空砲塔の半数が台座から外れて傾いたり、シールドごと破壊されたりして、あちらこちらが爆弾と魚雷の破壊孔だらけの満身創痍になっていました。

しかし辛うじて沈没を免れている状態を保っていましたし、艦橋、煙突、マスト、後楼に激しい損傷は見られず、傾きもしていませんでした。

そして、決して航空優位では済ませていないと確信していました。

主砲の三式弾の炸裂で編隊ごと炎に包まれるのと、その水平射撃で魚雷発射位置に就こうとする雷撃機が消え去るのを何度も見ていました。

高射砲弾の弾幕に砕かれる爆撃機や機関砲弾と機銃弾の被弾で分解しながら海上に墜落して漁火になる敵機を10機は数えていました。

エンジンや翼から炎を噴きながら艦橋や煙突をスレスレに飛び越えて反対舷の闇に消えて行った雷撃機も5機や6機では有りませんでした。

果たして来襲してきた敵機の大群の内、どれだけが無傷で母艦に帰投して、今日の昼間の上陸支援や『丹生』への追撃が可能になるのか分かりませんが、彼らの損害は由々しきモノだと推測されていました。

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11月5日午前9時30分、『丹生』は七尾港に辿り着き、ゆっくりと艦首を富山湾へ向けて岸壁に接岸しました。

直ちに負傷者を下船し病院へ搬送させると、既に使い切って空と見做された備蓄の石油タンクや廃船の燃料タンクから集められた少ない燃料を補給して、排水ポンプと対空砲塔と電探の作動は続けられました。

高射砲、機関砲、機銃の弾薬が使用可能な砲塔へ補充されて、対空戦闘や小艦艇への水上射撃は可能になりました。

4連装46cm砲の砲塔は三つとも直撃した爆弾を舷側へ弾き飛ばして健在でしたが、46㎝砲弾の入手は不可能でした。

しかし敵は主砲の弾切れを知らないので富山湾への進入を躊躇い、遠目にはまだ戦闘的に見える『丹生』を完全に沈黙させるまで富山湾内への侵攻はして来ないと考えていました。

……その筈でしたが、昭和20年/1945年11月8日木曜日、午前8時にラジオから天皇陛下の玉音放送が為されて、大日本帝国は連合軍国に無条件降伏を行い、悲惨な戦争は漸く終息したのでした。